結婚願望なさそうとか、子どもがほしくなさそうとか散々言われるので、そんなことないよって書いてみました

, ,
以前も「母のようなひとになる」という短い記事を書いてたと思うのですが。

学生のころから一人で海外に出て、旅したり、インターンしたり、日本帰ってもベンチャー企業に入社して、こうして海外で働いていたり。
私には「結婚願望、子どもが欲しい」という意思が皆無である(ていうか、できないでしょ、とさえ言われる)という認識を持たれていることがすっごく多く、前は都度本気で怒って落ち込んでいたことがありました。女として生まれたこの身体全部否定されたようで、いちいち怒ってしまっていました。みんなそんな意味で言ったのではないと今では思えるのですが。

ここ 最近まわりで、結婚、妊娠、出産する友人知人があまりに多く、どうして私は「結婚しなさそう」とか「子ども欲しくなさそう」とか言われてしまうのか考えてみました。

私は母のことをとっても尊敬していて、大好きで、母のような人になりたいなとずっと思っています。
小学校後半頃からの夢は、周りがお花屋さん、パン屋さん、野球選手、、みたいなのが圧倒的人気を誇る中、「主婦」でした。
(小学校前半は姉の真似して、作家と言っていました。笑 もちろん作家ってどんなもんかよう分かっておりませんでした。)

多分家庭に入りたいというよりは、外で働くロールモデルが近くにいなくてイメージ湧かなかったこと、⚪︎⚪︎屋さんみたいなのもあまりしっくりこなかったこと、何よりいつも近くにいた母が私のロールモデルだったからだと思います。家の家事をテキパキこなし、時間作って趣味のテニスに出かけてそこにお友達もいて大会にもでてて、英語が得意だったので小学生への英語の先生の資格試験を受けたり、主婦検定なるものの第一回を受験してみたり。パートに出たことも何度かあるし、自分の車をゲットしてからは、よく実家へ顔を出したり、テニスや買い物でも時間の融通が利くので、休みの日には私も一緒に買い物や映画に連れて行ってくれたり。

母と地元の仙台でランチ〜@カフェモーツアルト

私や姉の世話も大変な苦労をかけたと思いますが、母としてだけでなく一人の女性として常に、向上心とか、人生を楽しくしてやろうという意思がとてつもなく強い人だったと思います。その姿勢にきっと憧れていたのだと思います。どんどん自分の世界を広げていこうとする母に、さみしい思いをしたこともなかったですし。むしろすごいなあ、と憧れがどんどん強くなりました。

それから子育ての方法も面白かったなあと。そんな感じでとても真の強い母だったので、子育ても、幼稚園とかある程度大きくなってきたら、ほどよい距離感で見守ってくれていたように思います。もう最近になってから聞かされたのですが、私が小学生のころ、その日遊ぶ約束を取り付けられず帰ってきた私は母に「何をしたらいいかわからない」と泣きべそかきながら言ったそうです。そこで母が一言「この子自分で何もきめられないのね」と驚いたと。笑

なんだかその距離感、子どもながらに覚えている気がするのです。私が困った時、何か嫌なことをされたり言われた時、当の本人よりもムキになって怒ってくれて私がそこまで怒らなくても大丈夫だよと思うこともありましたが、自分で選択すべきと母が判断するものに関しては心配しすぎるのでなく「私はあんたじゃないんだから、自分で決めなさい。」「だれもあんたが失敗したって痛くもかゆくもないんだよ」と小さい頃から言ってくれていました。ものすごいあったかさで見守ってくれつつも、あくまで母と私は別人格であり、早く自分で選択し、決定をしていきなさいって育ててくれたように思います。

18歳まで育ったお家の近く(あまり写真関係ありません笑)

ちょっと母が大好きって話にずれてきましたが笑、そんな子どものころからの接し方も嬉しく思っていて、いつか母と自分の子どもをあやしながら一緒に自分の子どものころの話をしたり、子育てについてあれこれ話を聞いたり、そんなことが楽しみで、将来そうなるのが当たり前と思うようになっていったと思います。


そのうち、大学生になって、生きていくためにいろいろ模索する中で冒頭に書いたように、海外で働きたいと思ってそのようなキャリアを選んでいくことになるのですが、母になることが自分の中で当たり前すぎて人に語ったことがないあまり、キャリア一直線のひとと思われるようになったらしいです。そもそも仕事してたら結婚願望ないとか短絡的すぎませんかと思ってしまいますし笑、事実どれだけの物理的な障壁があるのかそのときまで想像の域を出ないわけですが。


やはり母になるという夢は叶えたい。
私も自分の母のような母になって、子どもが将来愛おしいと思える人生を歩めるように、あったかく見守ってあげたいと思います。